【道祖神】愛知県高浜市の歴史研究

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地名の変遷

地名の変遷

道祖神の文字

地名の調査

道祖神の文字でも述べたように高浜の道祖神は、最初は高浜村と高取村との村境の辻にあった可能性があります。 男性側の端に彫られている文字である「左 多かと里 かりや道」は、万葉仮名(まんようがな)で「多加土里」の字を当てているのでしょう。 変体仮名が使われた理由としては「たかとり」の漢字の字画が多く刻めなかったからだと考えてよいと思います。 ではその「たかとり」の漢字は歴史上でどのような漢字が使われていたのかを調べると「鷹鳥・高鳥・高取」という漢字が使われていました。 高取村は江戸時代の検地帳では「高取」という表記であり古地図も「高取または高鳥」となっています。 いっぽうで室町時代の資料では「鷹鳥」と表記されています。 これにより室町時代から戦国時代の間に道祖神の文字が彫られたと考えることができます。 江戸時代に文字が彫られたのならば「高浜」と同じ「高」の漢字を使っていた時代なので「多か」は「高」と彫ることになり、御幣(ごへい)下の狭いスペースに文字数を増やしてまで彫る必要はなかったでしょう。 ただ江戸時代にも万葉仮名(まんようがな)を使用した道標はありますので道祖神の左文字列をどうとらえるかによるでしょう。 ここでもう一度注意深く道祖神の文字を観察すると御幣(ごへい)下の狭いスペースにわざわざ多い文字数を当てていることがわかります。 この狭いスペースに万葉仮名(まんようがな)にして文字数を増やすのは彫りにくいので普通はスペースの多い右文字列のほうに入れるはずです。 もしこれが江戸時代に彫られた文字ならば「高鳥または高取」の「高」が「高浜」の「高」と同じ漢字を当時は使用しているのでむしろ万葉仮名(まんようがな)をあてるのはスペースの多い女性像側の文字列にある「高はま」のほうを「多かはま」とするほうが簡単であり、スペースに対して文字列のバランスがむしろよくなります。 それゆえこれは江戸時代の地名の「高鳥」「高取」などではなく室町時代前後の「鷹鳥」という漢字を万葉仮名(まんようがな)にして彫ったと言えます。 では、なぜ左右の文字列を入れ替えなかったのでしょう。 なぜわざわざ御幣(ごへい)のある狭いスペースに多くの文字を入れたのでしょうか。 これはおそらく道祖神が小祠(しょうし)に入っていたからだと考えられます。 それゆえ移動させることを前提にしてはいなかったと考えられます。 また小祠(しょうし)に入っていたために道祖神の向きを変えることもできずに、このように彫られたのだと考えられます。 実際に該当するかどうかは所在がわからないので調べようがありませんが、高浜市史には空の小祠(しょうし)が数個存在していました。

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地名の鷹鳥

道祖神の文字

鷹鳥の由来

この地名の「鷹鳥」はいつ頃から使われていたのかを調べていくと奈良時代まで遡る(さかのぼる)ことができます。 これはとても難しい調査で、周辺自治体の市史や地名辞典をあたってもはっきりしませんでした。 そこで続日本紀(しょくにほんぎ)を読むと藤原鷹鳥・藤原鷲鳥という兄弟が表記されていました。 この名前にある「鷲鳥」は「鷲取」と同じ読みであり、三河の歴史上で鷲取論争(鷲取はどこにあったのかで岡崎・安城・高浜で論争になったお話)となった有名な地名でもあります。 藤原兄弟の名前に後の歴史学上の鷹鳥鷲取論争の地名の二つがあることは歴史の由来なのか何かの因果なのでしょうか興味深いところです。

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道祖神にある男性像の持ち物

道祖神の文字

御幣

信州にある道祖神の御幣(ごへい)は凸彫りです。 ところが道祖神像を調査するため祠をあけてもらった時に気づいたのですが高浜の道祖神は御幣(ごへい)が凹彫りになっています。 ここに注目されている高浜の研究資料はありませんでしたのでもしかするとはじめての発見だったのかもしれません。 御幣(ごへい)の柄の部分は浅い凸彫りです。 これは他の地域にある御幣(ごへい)を持った道祖神とはあきらかに異なる特徴です。 追刻でここに文字を書いた紙をあてる際に御幣があるのでうまく紙がはれずに一度御幣(ごへい)の房だけ削った可能性があります。 文字を彫る前に凹彫りで房の部分を作り直した可能性が考えられます。 文字が彫られた時期が「高取」が「鷹鳥」の文字を使用していた室町あたりであり、道祖神像は同時期かさらに古いものと考えれます。

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