【道祖神】愛知県高浜市の歴史研究

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古老と研究者

古老の話

道祖神

古老と研究者

高浜市周辺の自治体にある道祖神の調査報告書を見ると三好市や安城市や刈谷市にも鎌倉時代のものとされる石造の単体道祖神像があります。 丸彫りの石造単体像を二体または単体で並べていたようです。 地蔵と陰陽石信仰が習合した形態で、地蔵の体の部分が男性の性器の形をしています。 安城の歴史研究資料を読むと当初安城の歴史研究者でも道祖神を地蔵だと考えていたようで、後に歴史研究者から同じものがあるということで地蔵ではなく道祖神だとわかった経緯が書かれています。 この話しは、江戸時代の高浜の古老の話しと少し似ている部分があります。 江戸時代の後期生まれの高浜の古老たちは市の調査で道祖神のことを地蔵と呼んでいました。 いつ頃からあったものなのかも判然としなかったと記載されています。 ようするに安城の歴史研究者たちが安城の道祖神を地蔵と当初認識したように高浜の古老たちも道祖神を地蔵だと思い込んでいたのです。 この背景には江戸時代の後期にはすでにこの信仰が高浜になかったか、または一部の人が信仰していたことを意味します。 しかし、道祖神には道標の文字が彫られています。 ですが、これは江戸時代後期のものと位置づけられています。 このように道案内として目立つ像が江戸時代の後期に作られたにもかかわらずどういう存在のものであるかを知らなかったというのはとても不自然です。 高浜の道祖神が江戸時代のものとする根拠はこの古老たちの話しと思われますが、市史の記述には古老たちの証言があいまいであり信憑性にやや欠けていると考えられているようです。 参考として古老たちは高浜の雛人形の歴史については300年前(江戸時代の前期)にはじまったお話しと木綿市(もめんいち)を関連させて話しています。 これらから高浜の道祖神信仰は江戸時代後期には廃れていたと考えるのが自然なのではないのでしょうか。

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信仰と講

高浜市指定文化財の道祖神

道祖神信仰と講

高浜の道祖神とはあきらかに造形は異なりますが、三河地方には前述のように鎌倉時代のものとされる単体丸彫り石造道祖神が存在しています。 これは山間部にしか見られない道祖神像がかつては三河の平野部にも存在していたとを示しています。 信仰というのはそれを支える講の存在があります。 講があることによって建築物や石造などは作る経済的な基盤ができます。 鎌倉時代のに三河地方に道祖神信仰が広がりそれを支える講が存在していたはずです。 またはその土地の有力者が石造を作らせたと考えられます。 このことからも古老たちの証言からも信仰としての講の存在がなく、道祖神を地蔵と呼んでいた経緯から江戸時代後期説は疑問が生じます。 江戸時代後期にこの地域の有力者が作らせたものならばなんらかの形で記憶があってもいいと思いますが、それもないようです。

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地元に根付く宗教

道祖神

道祖神信仰と真宗

高浜市の南隣の碧南市は昔は大浜郷でしたこの大浜郷一帯である高浜や碧南は今でも真宗の信仰が盛んな土地柄です。 高浜市内の旧高取町にある専修坊はこのあたりではもっとも古いお寺で真宗に改宗した歴史があります。 安城や刈谷などには鎌倉時代のものと考えられている単体丸掘の石造道祖神像があります。 道祖神信仰は真宗の改宗前後すなわち鎌倉時代あたりにこの三河地域に信仰されていたことがわかります。 しかしながら高浜市の道祖神は近隣の自治体にある鎌倉時代の単体道祖神との造形の違いから江戸時代に作られ可能性も考えることができます。 その理由としては江戸時代には大浜街道などを通じて高浜と信州は交流があったからです。 碧南市の歴史の記述を見ると江戸時代に大浜で(うなぎ)の養殖をはじめた人が桶に水をはり鰻を生きたまま信州まで運んだ記述があります。 さらに愛知県の北東の山間部に位置する設楽では江戸時代に数軒の問屋もあり信州の山の幸や大浜郷(現在の碧南と高浜)の海の幸が扱われていました。 この設楽には江戸時代の双体道祖神があります。 また東海道の池鯉鮒(ちりゅう)宿(現在の知立市)では馬市が開催されていて、信州の馬も扱われていました。 この馬市での交流により信州から道祖神信仰が伝わった可能性もあります。 ようするに江戸時代には信州との交流により高浜に道祖神がもたらされた可能性も考えれます。 それでは他の時代ではどうでしょうか。 鎌倉時代以降で真宗の根強いこの地域に果たして道祖神信仰が入る余地はあったのでしょうか。 高浜市の市史や古老の話しにも江戸時代に道祖神の講の存在を裏付けるものは見つかりません。 では、真宗の信仰が根付く前はどうでしょう。 そうなると江戸時代以外で考えると鎌倉時代前後が高浜に道祖神信仰が入ってきた時期とみるのが自然なのではないのでしょうか。 もうひとつ着目する点は地域による造形の違いです。 刈谷市・安城市・知立市にある単体丸掘りの道祖神と高浜市にある双体道祖神。 この違いは郡の違いから見ると江戸時代以前は安城・刈谷・知立が碧海(あおみ)郡(現在ではへきかいと呼ぶ)に属し、高浜市は幡豆(はず)郡に属していました。 この所属していた郡の違いが造形の差と関係があるのかもしれません。 高浜は室町時代から戦国時代初期にかけて奈良の春日大社の社領となっていたところです。 社領から今川領になったのかは記述をみかけなかったのでよくわかりませんが、このあたりは今川領と安城(安祥)松平領との境にあたった地域と考えられます。 そこで高浜にある双体道祖神像が江戸時代以前のものと仮定して考察すると道祖神の道標である文字の左文字列は碧海郡(戦国時代は松平領)の地名であり、右文字列は幡豆郡(戦国時代は今川領)の地名です。 この道標から推測すると高浜の道祖神は元々は碧海郡である鷹鳥(高取)村と幡豆郡である高浜村との間に通じる道の高浜村の境界にあったのではないのでしょうか。 まとめると刈谷市・安城市・知立市の単体道祖神は鎌倉時代に碧海郡に広まったもので、高浜市の道祖神は室町時代から戦国時代のものという可能性がでてきます。 ですがここまでの話しからすると鎌倉時代の三河地方の道祖神や高浜の道祖神、設楽の道祖神も含めて愛知の道祖神は全国的な道祖神の紹介をしている本でもほとんどみかけることはありません。 この設楽の道祖神の存在や江戸時代の交流を考慮すると江戸時代に信州から道祖神信仰が入ってきた可能性も十分にあると思います。 ですがこれまでにも書いたらように高浜の道祖神は信州の道祖神には見られない造形をしています。 信州の石工が高浜の道祖神を作ったものならば造形に類似点が見られるはずです。 高浜と信州の道祖神の共通点は双体像ということと男性像が烏帽子(えぼし)姿ということです。 この烏帽子(えぼし)姿は信州だけの特徴ではなく扶桑略記(ふそうりゃくき)に書かれている平安時代の京都の木像道祖神にも見られます。 いっぽうで扶桑略記(ふそうりゃくき)にある男女像と陰陽石信仰(性器)との習合は高浜の道祖神にも信州の道祖神にもみられません。 信州にあるものと比較して見ても男女の立ち位置と視線先(体の向き)や女性像の造形も御幣(ごへい)の位置も異なります。 また道祖神は道の神様でありながら道しるべとしての道標の文字が彫られたものは極めて希であります。 高浜の道祖神はこの極めて希な道標の文字が彫られているのが特徴です。

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