【道祖神】愛知県高浜市の歴史研究

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辻の時代背景

道祖神と辻の時代背景

道祖神と扶桑略記

辻の時代背景

平安時代は性表現におおらかな時代で『扶桑略記』(ふそうりゃくき)を読むと京の都の辻に陰陽(性器)が描かれた木像の道祖神像があったと記述されています。 このような木像の男女像に陰陽(性器)を表現した信仰を陰陽石信仰や石神(いしがみ)信仰といい大変古くからある信仰です。 陰陽石信仰は世界中にみられ、日本では縄文時代にはじまり男性の性器をかたどった石が信仰の対象となっていました。 おもに家のかまどやや東北では屋根裏に置かれていました。 その他には陰陽石の下に人骨が入った(かめ)が埋められているものが発見されたりしています。 道祖神が書かれた本を読みますと、武家社会になるとこれらの陰陽石や卑猥なものが辻から撤去されたのばという説があります。 そうした経緯で平野部にはほとんど道祖神はなく、山間部に道祖神が多いという説もあるようです。 また、ある著者は道祖神は塞の神で村境に設置されるため平野部では村々が隣接しているために設置するともめるため平野部では広がらなかったのではと言っています。 私もこの意見には同意しています。 では愛知県の西三河地域に鎌倉時代のものとされる道祖神が平野部に複数存在しているのはなぜかといいますと、鎌倉時代当時は西三河の村々が隣接していなかったと考えられます。 その根拠として江戸時代に耕地開発をして村々が隣接していったことが伺える資料がありました。 村々が隣接していくに伴い平野部ではこの信仰も薄れていったのではと考えられます。 また信州などの山間部でも村々は隣接していないため村境に道祖神を設置しても何も問題がおきることはなかったと考えられます。 これらの環境的な側面から山間部では江戸時代でも道祖神信仰が盛んに信仰されていたと思います。 このような背景を考えると高浜の道祖神も元々は村境にあったものが江戸時代の耕地開発で村々が隣接するようになり、村内に移動することになったのではないのでしょうか。

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文字の謎

扶桑略記に見られる道祖神の記述

道祖神の文字

高浜の道祖神は、他の道祖神とはあきらかに異なった特徴として道標としての文字が彫られています。 道祖神は道や旅の安全の神様でありながら道標の文字が彫られているものはほとんどないようです。 これはある本にも指摘されていました。 実際に『信濃路の道祖神』にある写真や説明を見ても道標が彫られているものは数体です 三河では高浜のほかにも挙母(ころも)(現在の豊田市)に道標が彫られた道祖神があるようです。 信州の道祖神に彫られている文字に隣村というものがありました。 信州の道祖神で地名が彫られているのが存在しているのかはよくわかりません。 いっぽうの高浜市の道祖神は地名(道や浦を含む)が彫られています。 では、なぜ高浜の道祖神は道標の文字が彫られているのか、そしていつ頃彫られたのでしょうか。 私は元々高浜の道祖神には文字は彫られていなかったと考えています。 高浜の道祖神にある文字は追刻された可能性があるからです。 道祖神の女性側の文字は「右 高はま 大はま浦」と彫られています。 かつて大浜は江戸時代の矢作川改修事業の前までは大きな入江を形成していましたが、その後に矢作川の上流からの土砂の流入で入江に土砂が堆積して大浜の複雑な海岸線を形成していた入江は消滅しています。 和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)の「浦」の項目を見ると入江と書かれています。 これらを踏まえて、道祖神の文字は江戸時代以前と考えることもできます。 「大はま」は「大濱」という地名の名称です。 「大濱」の関連資料にある大濱街道は江戸時代の初期に整備されています。 刈谷へ北上し名古屋へ塩を運んだ道、足助へ海産物を運んだ道、西尾へ行く道を地元の歴史ではそれぞれ大浜(濱)街道と記述されています。 周辺自治体の石造物に文字があるかを確認したところ、安城市福釜(ふかま)町に江戸時代と思われる石の道標があり、そこには「大はま道」と彫られています。 道祖神の「大はま浦」をよくよく考えるとこの文字が江戸時代に彫られたものならば江戸時代の大浜街道の成立や福釜の石の道標から考えても「大はま道」となると思います。 また碧南(大濱)の資料をあたってみましたが江戸時代の地名に「大濱浦」という地名は存在しませんでした。 西尾にある岩瀬文庫の江戸時代の古地図をあたってみたところこの地名は見当たりませんでした。 碧南市の担当部署に確認をとったところやはりこの地名は存在しませんでした。 ということは「大はま浦」は地名というわけではなく「浦」は湊や海道を指しているとも考えられます。 ですがこの「浦」には疑問が残るのでさらに調べると大浜の関連資料に沼津城の瓦が大濱で作られ瓦に「大濱浦」の刻印がありました。 それと江戸時代の廻船(かいせん)の資料では刈谷港は「刈谷船」高濱は「高濱船」と記述されていましたが、大濱は「大濱浦船」と記述されています。 江戸時代の大濱では地名にはない「大濱浦」の表記を使っていたようです。 これはいったいどういうことでしょう。 これにはおそらく浦高札の問題が当時から関係していたのではと推測します。 江戸時代に刈谷や高濱は、はやくから浦高札(うらこうさつ)が立てられましたが、大濱はなかなか許可がでませんでした。 大濱の人たちには江戸時代にそういう経緯があり「浦」という表記に強いこだわりがあり日常的に使っていたのではないのでしょうか。 さらに他の文献を見てみますと、明応八年に室町後期時代の公卿・歌人である飛鳥井雅康(あすかいまさやす)が富士遊覧に赴いた時の紀行である『富士歴覧記』(ふじれきらんき)の中で大濱に立ち寄った記述の中で「大濱ノ浦」という文字が見えます。 もうひとつ、家康の伊賀超えで大濱に上陸した詳細が書かれた本にも「大濱ノ浦」の記述が見えます。 これらの歴史的な背景から見て「高はま 大はま浦」の文字からはいつ頃彫られたものなのかは判別できませんでした。 ここでもういちど道祖神の文字を詳しく見てみると「左 多かと里 かりや道」「右 高はま 大はま浦」となっています。 左の文字列を説明すると、最後尾に「道」という文字があります。これは多かと里(鷹鳥または高取または高鳥)と苅谷(かりや)または雁屋(かりや)(現在の刈谷)のそれぞれに「道」を当てていますので左文字列は道を指しています。 右の文字列は最後尾が「浦」です。 「浦」が地名ならば最後に「道」がつくはずですがついていません。 ということは「浦」は湊や海道を意味しているということになります。 これにより「大濱」は地名ですが「大濱浦」は地名ではないことがわかります。 次は道祖神の左の文字列にある「多かと里」と「かりや」ですがこの地名は方角がやや異なります。 「多かと里」は高取村のことで高浜村の東にある村です。 いっぽうで「かりや」は苅谷(かりや)雁屋(かりや)のことで江戸時代の古地図では高濱村の北に位置する吉濱村をさらに北上したところ位置します。 道標にある「多かと里 かりや道」の二つの地域は高浜村から見ると北と東で方向があいません。 この道の調査を進めるにあたり刈谷市の歴史をみていくと残念ながら道に関する歴史資料がほとんどなく歴史研究者も刈谷の道については研究が進んでいないことがわかりました。 江戸時代に高浜村から「かりや」へ行くルートは、北の吉濱村と小垣江村を進み猿渡川を渡りさらに北上する必要があり、そこには土橋の巡見橋(じゅんけんばし)がかかっていました。 高濱村の江戸時代の古地図を見ると高濱村から苅谷城へ通じるかりや道は、この巡見橋(じゅんけんばし)を通っています。 ですので、道祖神の「左 多かと里 かりや道」の文字は、高濱村の中に道祖神があった場合この道標に従うと北と東で方向が合わないことに気づきます。 このことから江戸時代に高濱村の中に道祖神があったという古老の話し以前に別の場所に存在していた可能性があります。 それはおそらく江戸時代以前の高濱村と高取(鷹鳥)村の村境にあったのだと推測します。 西尾の岩瀬文庫(いわせぶんこ)の江戸時代の古地図には巡見橋(じゅんけんばし)より上流に他の橋がかかっていたことがわかります。 平安時代で有名な景勝地であり交通の要所であった知立の八橋(やつはし)ちかくにあるこの橋(弘法橋)が古くから存在していたと仮定するならば、江戸時代以前から高取村から苅谷へ抜ける道が現在の刈谷市の半城土町あたりを通過する形で存在していたのだと考えれます。 この道は平安海進(へいあんかいしん)などの海面上昇を考慮すると猿渡川の川幅が広がっていたため江戸時代以前はこのあたりしか交通路がなかったのです。 現在で言う県道47号線で高濱村から高取村の高取神社の前を通過しと隣村である安城の高棚村を抜け現在のデンソー高棚工場の東側面あたりを北北西に進むと県道245号線があり刈谷へ抜けれます。 道祖神の文字はそのルートを指しているのだと推測します。 このお話しは「東海道と道標」へと続きます。

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陸路と海路

扶桑略記の道祖神

東海道と道標

道祖神の「浦」の文字は湊または海岸を指していると考えられます。 なぜ「道」という表記を使用せずに「浦」という文字を採用したのかは、歴史的な背景が関係していると考えられます。 江戸時代は高濱村と大濱村には浦高札(うらこうさつ)が立っていて廻船(かいせん)で年貢などを運んでいました。 それより昔ではどうでしょう。 まず陸路を見ると室町後期から戦国時代に東海道は機能していませんでした。 地方の豪族が勝手に関所を作り、当時は盗賊なども多発して東海道は危険だったのです。 そのため海路が使われた可能性を示唆している研究者もいます。 平安時代も重いものは舟で運ぶように指示されています。 三重の桑名(くなわ)まで米を運び、陸路から琵琶湖に出て京へ運搬されています。 道祖神の文字でも述べたように『富士歴覧記』(ふじれきらんき)の移動経路も知多半島を横断して船で対岸にある苅谷の水野氏を訪ね、その後に船で大濱へ向かっています。 戦国時代には岡崎松平と安城松平が戦争状態で東海道は使えずに、大浜 - 岡崎の吉田という海路を使用していたことが書かれています。 旅人は、東海道から一旦知立の刈谷道あたりから高浜湊や大浜湊に陸路で行き、海路で吉田や伊勢などへ迂回していたようです。 後に江戸時代に苅谷湊の外湊だった高浜湊に早々と浦高札(うらこうさつ)が立ち三河有数の船数を誇る廻船(かいせん)を持ち年貢などの物資を運ぶ重要な湊となったのは大昔から高濱の湊が物資や人の移動に多くの船を持っていたという背景があったのでしょう。 このように室町時代後期の東海道は安全な海の道が使われたのでしょう。 そして道祖神の「右 高はま 大はま浦」の文字は、高濱や大濱の湊から三重の桑名や岡崎へ行く海上航路が存在していたことを示し同時に海の東海道を示していた可能性があります。

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